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« 平成21年度東京大学学部入学式総長式辞  「未来に向けた確かな指針」 | メイン | 新緑の銅像めぐりガイド »

東京大学の役割は「知の公共性」

平成21年度東京大学大学院入学式総長式辞より

これまで、社会が数多くの課題を抱えていることに対して、東京大学は、新しい学術的な価値を創造し、また、多様な教育と研究のプログラムを構築することで 応えてきました。こうした挑戦をつねに可能とする、学術的な基盤の充実と発展には、引き続き大きな力を注ぎたいと考えています。東京大学の学術のウィング というのは、現在と未来だけではなく過去にも広がっています。知の創造にとって、未来に開かれた知の可能性に対する果敢な挑戦とともに、歴史に鍛え上げら れた知の蓄積に対する鋭敏な意識は、決定的な要素です。時代にもてはやされる学問だけではなく、多彩な学問分野を、時の制約を越えて確実に維持し発展させ 続けることは、東京大学の誇るべき伝統であり、学術の基盤を豊かなものとし、創造性を生み出す源となります。
 このような基盤の上に立って、現代のような厳しい時代に立ち向かう東京大学の役割を、私は、「知の公共性」という言葉で示しておきたいと思います。


 「公共性」という用語は、とても長い歴史を背負った言葉です。人々の行動や組織の活動が、社会的な文脈の中に置かれる時、そこに「公共性」というテーマが発生することは、ある意味で当然です。同時に、この言葉は、なかなか扱いにくいものです。この言葉は、しばしば国家や権威と同じように見なされてきました。そうした意味で、個人や自由を尊ぶ人々からは、ときには消極的な評価を受けてきました。また、市場の価値や個人の自己責任が強調される時代には、「公共性」という言葉の意義が、いささか後退するように見えることもあります。
 ただ、いまの時代、改めて「公共性」というテーマと、真剣に向き合うことが必要となっているように、私は感じます。これは必ずしも、昨年来の金融危機や産業の動揺が理由というわけではありません。そうした危機によって状況が加速された面はあるとしても、それ以前から、この日本社会の中で次第に顕在化しつつあった課題です。
 すなわち、いまの社会では、さまざまな場面で、人々が共有できる価値が失われつつある、ということが言われます。むしろ、「格差」が広がる中で、社会の分裂ということが危惧されています。いわゆる「総中流」の意識が崩れて、経済格差の拡大していることが、すでに今世紀への変わり目の頃から議論になっていました。
 また、地方と都市の格差、という課題もあります。地方自治をテーマにしている、あるジャーナリストが記していた表現が、大変印象的だったのですが、彼は、放射性廃棄物処理や限界集落の問題を事例にして、地方と都市が対立構造で描かれがちな状況を、「共感が失われた共同体国家」という言葉で示しています。また、「都市と地方は、同じ日本という国内でありながら、別の世界に住む人々と認識され始めている」のではないか、とも述べています。
 あるいは、あるメディア論の若い研究者は、日本の各地で海外からの労働者の移住によって、「住民の多国籍化、多文化化」の状況が起きていることを指摘し、「異なる言語・異なる文化・異なる労働環境・異なる生を生きる人々の間をつなぎ止め翻訳し調停する」ことが必要だと強調しています。
 「公共性」の再構築といっても、何か論理操作によって新しいコンセプトを作れば、それでよいというものではありません。むしろ、これからの多様化する社会の中で、人々が共有できる価値を見出だし、あるいは創り出し、その発見や創造のためのプロセスを動かし、そして、その価値を実現していくための手段を考えていく、ということが必要なのです。そこでは、新しい知恵が求められています。私は、その媒介をするのが、知の公共性、学術の公共性、大学の公共性であると考えています。
 言うまでもなく、それは、「権威」としての公共性ということではありません。学術や大学が、ただ権威をもって一方的に未来の方向を指し示す、ということではありません。欧米的な語源での公共性、つまりパブリックとかエッフェントリッヒカイトといった言葉には、公開性というニュアンスが本来的に備わっています。つまり、社会に開かれた議論のプロセスを通じて、人々が、未来に向けてお互いに共有できる価値と仕組みを作りだしていく、ということが求められていると思うのです。
 実際、いまの社会の中で、新しい形で共通の価値や認識を見つけていこう、あるいは生み出していこうとする芽は、すでにあります。NPOをはじめ、さまざまな人々のボランタリーな活動が、しばしばインターネットのような新しい通信手段も使って、空間的、あるいは時間的な制約を越えて、新しい公共性の世界を生み出しつつあることも、しばしば見られます。あるいは、もう少し制度的なことで言えば、この五月からスタートすることになる裁判員制度では、職業裁判官による、従来のある意味では権威的で専門的な司法というものを、人々により開かれた司法にしていくという意味で、公共性が権威的なものからより開放的なものに向かっていく時代の流れに、対応している印象を持ちます。

 大学というものは、こうした新しい時代の公共性を生み出す、最高の装置です。大学は、新鮮な知恵と多様な価値、そして開かれた議論が支配している空間です。そしてまた、この空間は、決していわゆる「象牙の塔」として、閉ざされているわけではありません。今日の大学、とりわけ大学院は、さまざまな形の社会との連携によって、その知の生命力を高めています。これから大学院に入学しようとする皆さんにも、今日のように、その基盤から激しく問い直されている時代に、未来に向けて人々が共有すべき価値とは何なのか、人々に幸せをもたらす知識や技術とは何なのか、といったことを、大学院における学生生活の中で、折に触れて考えていただければと思います。

 もちろん、こうした「公共性」という問題意識だけで、大学院での勉学が行えるわけではありません。せっかく、学部の時代よりはさらに、一段と奥深い研究を行おうとするわけですから、皆さんには、ぜひ、学問をするということの「わくわく感」を味わっていただきたいと思います。
 どうすれば、そうした「わくわく感」をもつことが出来るのか。これには正直なところ、これだという明確な答えはありません。そこには、いろいろなきっかけがあるはずです。
 ただ、私自身の経験から一つ言えることは、「違和感」というものを大切にするとよい、そこに宝が眠っているかもしれない、ということです。要するに、あれ、何か変だ、どうしてだろう、どうなっているんだろう、という気持ちを大切にしてほしい、ということです。
 私は、大学院を法学政治学研究科で過ごしましたが、その時に研究していた中心的なテーマは、「自由と制度」というものでした。それは、ドイツ語の言葉で、「インスティテューショネレ・フライハイト」、つまり「制度的自由」という言葉に出会ったことがきっかけでした。自由と制度の組み合わせというのは、直感的に違和感のあるものです。自然法思想においては、個人の自由は、人間が生まれながらに持っているものであり、その意味では社会以前から存在しているものです。他方、制度は言うまでもなく、社会が出来てからの存在であるはずです。
 しかし、さきほどの言葉は、自由と制度を結びつけようとするのです。それがどのようにして可能なのか、私は大変困惑しました。それは、知的緊張を高めるものでした。そして、その解決は、「制度的自由」という概念が、法律の世界の中でも解釈論と哲学論の境界に、また、法律の世界と社会的現実の世界との境界に位置して組み立てられている、と気づくことによって、はじめてある程度の合点がいきました。そこまで合点するために、私は、法律学の勉強だけでなく、国家学、社会学、そして人間学や文化学、さらには神学などの勉強も、少しばかりすることになりました。そうした幅広い勉強ができたのは、何より、最初に「違和感」を持ったからに他なりません。
 ついでながら、この自由と制度の構造をつなぐ重要な鍵として、エラン・ヴィタル(生命の躍動)という概念があります。この言葉を、私は1920年代のフランスの公法学者の論文から学んで、当然にその学者の創作にかかる言葉だと思い込んでいました。
 ところが、ほんの数ヶ月前、ある社会学の分野の先生から著書を送っていただき、それをぱらぱらとめくっていると、このエラン・ヴィタルという言葉が目に入って飛び上がりました。その言葉は、さきほどの公法学者の発明ではなく、同時代のフランスの哲学者の言葉だったのです。そして、実は、このエラン・ヴィタルというのは、少し哲学をかじった人であれば、おそらくは皆さんの中にもいらっしゃると思いますが、ああそれはベルクソンの言葉だと、すぐ気づくほど有名なものです。その点では、この話は、30年前の私が、まだまだ勉強が足りなかった、未熟だったというだけのことです。しかし、同時に、勉強というものは一生続くものだという、ある意味では当たり前のことに、改めてちょっとした感動を覚えたのも事実です。

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